普段生きていて、「当たり前」とされることは、
意外と絶対的な存在ではなく、人間が何かしらの理由で決めつけ、
それが慣習や文化によって継続されてきていることだったりする。
このように改めて考えさせられたのが、この記事だ。
落合陽一さんのツイートを読んでいて流れてきたのだが、これは面白かった。
簡単にまとめると、70歳になるオランダの男性が法理上で20歳若返らせるための生年月日の変更を裁判所に求めたという謎の記事。背景としては、彼は独身で、恋人探しをしているのだが、恋人見込みの人に年齢を伝えてしまうと中々恋人に出来ないという事が良くあるらしい。彼は、これを、"高齢である事の差別だ"と捉えた。その理由付けとして、仕事やジェンダー、政治や性的指向は選べるのに、なぜ年齢は選べないのか!?という意見だった。(彼は生物学的な年齢は40~45らしい)
これは一見頭がおかしくなったのかと思ってしまうだろう。彼の意見を批判的に考えると、世界共通となった年齢の概念に何を文句を言うのかと。そしてこの年齢は世界中の人を"管理"するのには非常に簡単でわかりやすいし、他に案もない。そもそも年齢を言って制限されるなら、年齢を言わなければ良いし、彼に合う恋人に会えていないだけなのでは!?もっと良い相手を探しなさい!こんなことを思うだろう。
ただ、年齢ってそもそも何か?と考えてみると、意外と年齢の概念は弱い存在だったりするものだ。年齢というのは、辞書で調べると、主に物理的時間(一般的な出生からの経過時間)、生物学的時間(分子の生化学反応を捉える時間)、生理学的期間(脳内感覚の時間)、身体発育年齢(骨格から年齢推定したりする)がある。
現代に普及した満年齢という概念は、物理的時間に入るものだろう。ただ、これは正確ではないことは明らかだ。例えば、うるう月、うるう年があるように、一年間は毎年全く同じ時間ではないし、誕生日を迎える深夜12時も、特に何も実感がないのに突然年齢が上がるのは変な感覚だと誰もが想うだろう。さらに、犬の場合は基本的に身体発育年齢で年を考えるはずだ。犬歯の成長具合などで犬の年齢を推定するのはこの例に入るだろう。以上のように、物理的な年齢は意外と普遍的でないことが分かる。
さらに、年齢を歴史的観点で見ると、"管理するため"に広まったことが分かる。昔の日本では0の概念がなく数え年だったが、それも公的制度や地域行事の際の処理を簡単にするために普及したものだった。明治時代に満年齢を法律で決めたのも、国際性や、配給の不合理性をなくすため、正確な出生届を得るためだった。つまり、今後の社会が年齢を"管理するため"に捉えなくなるのであれば、彼の訴えはすんなりと通る可能性も出てくるかもしれない。私はこのように思った。
抽象化して考えると、近年の傾向として個人主義は免れない存在となり、LGBTq、女性活躍が広まっている。管理のために世界中に普及していた概念は、今後、個人のための概念として意味が変化していく可能性がある。
例えば、住所は1世帯1つ持つ必要もなくなるかもしれないし、自転車も1台ずつ管理番号を持つ必要がなくなるかもしれないし、国籍すら変わる可能性がある。その意味で、年齢や時間も人によっては生物学的時間を選択したり、物理的時間を選択したり、身体発育年齢を選択するようになるかもしれない。もしも、それが、個人の尊厳を支えるものになるのなら。あはは。
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