最近の自分の近況から、孤独について考える。

最近何してるの?と聞かれても、カフェの案を考えることしかしていない。。。

試験が非常にやばい。


しばらくの間、「虚無感」にやられておりました。

梅雨入りして、空は暗いし、風邪は引くし。

天気が変わると喘息の軽い症状が始まるし。


姉の結婚などなど、様々な負のダメージを受け、

一気に自分のメンタルを守ってくれていた「うっすーい膜」が破れてしまったわけです。


突如風邪を理由に、ちょっとダルいから、咳がすごいから、と言って

試験勉強をするモチベーションが無くなり、

学校へも行く気がなくなってしまいました。


休んだのは一日だけで、「ペイフォワード」という言葉が腑に落ちて、

僕は、フワーッと落ち着きました。

たまにあるんですよね、最近。


「社会のために貢献する」ことができる人がすごい、

「レールに乗ったまま生きて行く人」はちょっとダサいよ。

そんな考えを大学に入りさらに感じさせられます。


佐渡島さんの「なんで、大学に行く必要があるの?」というおキツイ質問に答えられる自信もなく、

社会へ飛び出して、勉強しながら、バイトしながら、カフェを作るというのもありかなと思ったり。


しかし、父からの「就職はどうするんだ。早くゼミを決めなさい。お前は社会を知らなすぎる」

という言葉も正論すぎて、自分がやっていることに自信を持てないまま、生活している感じでした。


この状態で、何か良くないことが続くと、「うっすーい膜」がパチン!と割れてしまう。

かなり、薄いけど、ギリギリぷにぷにしながら耐える膜は、

ワンス・あ・イヤーで割れるのでしょう。


一年に一回くらい、「あぁ、なんだろなぁ」という時期。

つまり、「虚無感、もしくは孤独感」


ただ、これ、僕だけじゃないと思います。

一部のスーパースターを除いて、同世代の多くのみんなは孤独を抱えていると思います。


この孤独については、人によっては捉え方は違うでしょう。

人それぞれ理由、または考え方があると思います。

今回は、僕が最近読んだ本、聴いた音楽を参考に説明できたらなと思います。


欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」からみる孤独について

いっつも欅坂46を参考に出してしまい、土下座したいくらいダサいのは分かっています。

しかし、本当に秋元さんはすごい、と思ってしまう。


 死んでしまいたいほど
愚かにもなれず
生き永らえたいほど
楽しみでもない
「月曜日の朝、スカートを切られた」より


途中でこんな歌詞がある。

今の社会に耐えられない。

どうにかしてやりたいけれど、別にやりたいことも楽しみもない。

だから、結局何もできないんだ、という意味だろう。


私は、多くの若者が、これと同じような悩みを抱えていると思う。

今の政治もおかしいと思うし、大学の授業もどうかしてると思っている。

将来はAIで仕事がなくなるって言われてるし、大企業でも安定した収入はもらえないと聞く。

しかし、だからと言って、就職競争から抜け出すほどバカじゃない。

とりあえず、目の前のことを一個一個クリアしていこう、と。


この不安定な状態で、多くの若者は耐えようとしている。

しかし、耐えきれなかった人が、不登校になり、学校をやめ、精神的な病に陥ってしまうのではないだろうか。


「認められたい」の正体 山竹伸二著 からみる孤独


山竹さんは、近代の日本と現代の日本の承認欲求の違いを示していた。


近代は伝統的道徳観(大きな物語)があり、何をしたら承認されるのかが分かっていた。

 江戸時代では、階級に分かれていて、自分が生まれた家の職柄を継ぐことが目標とされた。戦後でさえも、日本型雇用システムというレールがあり、大企業へ就職すると将来は安定だとされていた。


現代は伝統的道徳観から解放され承認が得られる基準が見えなくなってしまった。

 東芝は不正問題、シャープは買収され、ソニーも一時期不安定、パナソニックも大きな負債を抱えている。AIの導入により保険会社は危険に晒され、商社でさえもオリンピック後は危険と言われる時代。もう大企業へ入れば生涯安定という事は無くなってしまった。とはいえ、やっぱり今強いのは大企業。商社入ったらかっこいいって言われそう。だからこそ、何を目指したら、周りから認められるのか、もう正解がない時代なのだ。


自分らしいあり方が追求され、他者の承認を介してアイデンティティを形成するようになったため、そこに承認の不安が生じてきた。

「好きなことで生きていく」そんなスローガンをYouTubeが掲げてから数年が経つ。

ホリエモンが大学を中退している、スティーブ・ジョブズ、マークザッカーバーグも、イーロンマスクも、伊藤穰一だって大学を中退した。自分らしく生きる事は、しみじみ伝わるが、彼らは天才、僕は凡才。だからこそ、良くわからない。どうすればいいんだろうという不安。


しかし、社会に根付いている伝統的価値観を無視して自由に行動すれば、たちまち周囲から非難され、同じ社会に生きる人間としての承認を失ってしまう。そのため、自由を選ぶべきか、承認を選ぶべきか、新たな悩みが生じてきた。それが「自由と承認の葛藤」である。

大学生になってからは、本当に自由と承認のバランス勝負。

休み期間中とか、バイトのない夜とかは、本当に自由に生きている。

でも、大学は辞めずに、卒業できる程度の成績は取る、みたいな。

勉強は好きだけど、テストは嫌い。だからテスト勉強をしようとしても、

テスト範囲の「参考資料」ばっかり読みたくなって、テスト範囲の勉強しっかりできてなかったりする。やべ。


伝統的価値観に逆らって自由にふるまったとしても、どこか虚無感が拭きれない。なぜなら、自分の存在価値を証明し、生の意味を明確にしてくれるような、価値基準の参照枠がないからだ。

自分では、大丈夫だと思っている。でも、なぜか、たまーに虚無感にやられてしまう。


承認欲求という、うっすーい、膜。


じゃあ、どうしていけばいいんだろうか。
自由からの逃走 エーリッヒ・フロム著 からみる孤独


試験勉強という嵐が怖くてさらっとしか読めなかった。

思った事は今の日本は、ヨーロッパ中世の後の資本主義の時代と非常に似ているという事だ。


中世では、ギルドがあった。家柄が大切だった。

自分が進むべき道があり、親の家柄を継ぐことが大切だった。


しかし、資本主義となり、家柄よりも富の時代となった。

自分の進むべき道はわからなくなり、何よりもお金を持つ人が強くなった。

社会組織は崩れ、安定した場所はなくなり、個人は孤独になっていったのだ。


めちゃくちゃ似ていると思ってしまった。


この後、ヨーロッパでは、カルヴァン派やプロテスタントなどが広まり、

個人でも神に会うことができ、個人で服従できるようになった。

また、ナショナリズムが強くなり、

何をすればいいかわからない自由から逃げて、大きな思想に入り込んでいった。

自分では何も考えず、ただ組織のなかで言われたことをするだけのマシーンだ。

そうやって、アイヒマン問題も始まったのだろうか。


フロムは、当時のドイツのようなファシズムにならないために、

「積極的自由」を提案した。

感情や知性を使って、自分を他者や社会、自然と結びつけていくことだ。

これは、おそらく、竹山さんのいう「一般的他者の視点」と似ている

周りから直接認められなくても、見えない他者から認められると自分でも確信すること。


つまり、こういうことになる。

「ペイフォワード」だ。


いろんなことで、悩む事はある。

だけれども、どれくらい影響を与えられるかなんて事は気にしなくていい。

自分が3人にめちゃめちゃ愛情を注ぐことが大切なんだ、と。


3人が3人に愛情を注いだら9人。

9人なら27人。27なら81、81なら243。。。


世界中の人が「3人に愛情を持つ」

たったこれを思うだけで、社会はいいもんになる。

愛情を受ける人は嬉しいし、

愛情を注ぐ人も「人のためになってるな」っていう、一般的他者の承認を得られる。


学術的な答えを見出すまでは、

こうやってシンプルに考えていようかな。そう思った。


おしまい



参考資料

山竹伸二著 「認められたい」の正体

エーリッヒ・フロム著 自由からの逃走



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